少数意見

最新 追記

2002-05-11 鬼が来た!

_ ネタバレあり。

_ 映画評論家の佐藤忠雄氏はこの映画が「日本軍が中国の小さな村の村民たちをだまして虐殺する」話であるように解釈している(キネマ旬報2002年4月下旬号)。これは全くの誤解であり、そんな話であれば凡百の反戦映画と異ならない。この作品は、日本軍の兵士を欠陥もあるが魅力もある等身大の人間として描いている。とくに虐殺を命令する陸軍の隊長(澤田謙也)は不思議な魅力をもつ人物だ。虐殺は、ナチスドイツのように理性的かつ計画的に行われるわけではなく、ハンニバル・レクターのように我々の理解できない衝動に基づき行われるわけでもない。この映画は、普通の人間が持っている殺意が突然発現し燎原の火のように全部隊に広がり全てを焼き尽くす様を克明に描写している。

_ 日本軍兵士花屋小三郎は捕らえられ、小さな村の農民マーに預けられた。村人たちは花屋を殺すことも出来ず半年間世話をする。花屋はやがてマーたちの善意に感謝するようになり、自分の部隊につれていってもらえれば荷車2台分の穀物を与えると約束した。花屋の部隊の隊長はこの勝手な約束に激怒するが、日本軍は約束を守ると言い、荷車6台分の穀物をもって村に赴く。村人総出の歓迎会は放歌高吟の宴となり、隊長、村長らは競って歌を唄う。戦場でも人間は理解しあえるというハッピーエンドになりかけたとき、突然事態は暗転する。村人たちが陰謀をめぐらせているのではないかという疑いを捨てきれない隊長と酒の勢いでなれなれしく隊長に絡む一人の村人。それを見ていた花屋は突然その村人を襲う。あとは雪崩を打ったように大虐殺が始まる。

_ 和気藹々とした宴を殺戮の巷に変えたものは何だったのか。この不条理を必然として描いたのは監督(マーとして出演)チアン・ウェンの才能だろう。「ブラックホーク・ダウン」が人間でないものに対する殺意を描いた戦争映画の傑作だとすれば、「鬼が来た!」は親しさのすぐ隣にある殺意を描いた作品であると言える。たしかに、戦争という異常な状況があのような結末をもたらした原因ではあるが、殺意は戦争とは関係なく人間の本質的なものなのだ。

_ 人間はみな殺意というウィルスを体内に持っていて、それが何かのきっかけで発病する。発病すれば理性でのコントロールはきかなくなる。むしろ理性はそれを正当化する方向で知恵をめぐらす。花屋の暴走を見ていた隊長は、その瞬間次の凶行を阻止するという選択肢があった。しかし彼はまがりなりにも皇軍の兵士である花屋の行為を否定するより、それを正当化する道を選ぶ。すなわち、自分の脳裏にあった村人たちが敵であるという可能性を蓋然性に変え、あたかも自分が最初から虐殺を企んでいたかのように振舞うのである。それによって自分の論理的一貫性が保たれ、部隊に対する威厳も保てる。この決定に後ろめたさがあるという事実は、むしろ行動の激しさを招来する。自分が後戻りできないことを確認するために殺し続ける。

_ この映画がこわいのは、戦争を舞台にしながら我々の本質を捉えているからだ。人間はだれでも状況さえ整えば殺人鬼になる。鬼は我々のなかにいる。


2002-05-22 総領事館事件

_ 日本の主張が弱いのは本音で話していないからだ。本音は亡命者を受け入れたくない、主権侵害などは気にしないので領事館内から亡命希望者は連れていってほしい。もしビデオがなかったら、不審者が侵入しようとしたが中国の武装警察官が阻止してくれた、ということになったはずだ。

_ ビデオがあったおかげで日本は建前で話さなくてはならなくなった。中国はそのあたりは心得ているので余裕の姿勢である。多分今裏での話が続いており、日本は建前上中国を非難せざるをえないが本意ではない、とか言っているのだろう。

_ 小泉さんは民主党の調査を「自虐主義」と評したがこれは当たっていない。日本が中国や韓国に対して自虐的になることは多いが、それは歴史の評価にかかわるもので今回のような事実認定の問題ではない。民主党の調査では日本に不利な事実が明らかになったが、有利な事実だけ拾い出そうというのなら調査ではなく作文だ。外務省の調査はそれに近かった。小泉が民主党が認定した事実が誤っているというのなら、それは傾聴に値するが単に不利なことが書いてあるというのなら非難されても仕方がない。小泉は真紀子事件以来カンが狂っているようだ。面白いのは中国嫌いの石原慎太郎がなにも発言しないことだ。筋が悪いと思っているのだろう。


2002-05-24 KT

_ 面白かった。

_ 1973年のKCIAによる金大中拉致事件の話だが、自衛隊の情報将校富田満洲男(佐藤浩市)を絡ませたところが作品に奥行きを与えた。富田は三島由起夫と自衛隊の決起を計画したが、上層部の反対で断念したという。三島が自決したとき富田は東部方面総監部に白い菊の花をもって現れる。

_ 金大中事件は日本を舞台にしたということを除いて、日本と直接関係ない。この映画に富田というフィクショナルな人物が出てこなかったら日本人の観客が感情移入できる度合いは低くなっていただろう。

_ 富田が三島のシンパであったという設定も有効だった。この当時、朴大統領の軍事独裁政権と民主化の旗手であった金大中の対立は朝鮮半島の緊張を背景に、殺すか殺されるかの状況になっていた。そこに存在感をもって関われる日本人は少なかっただろう。1970年に死んだ三島はその当時すでに平和ボケしていた日本人に「生命以上の価値は存在するか」という問いを投かけた。死に場所をもとめているかのような富田の暗い表情は、軍隊になれない自衛隊のみならず、あの時代の一部の青年に共通するものだった。アラブに死に場所を求めた赤軍派の連中と180度政治思想は違っていても同じ情念を持つ富田のような自衛官はきっといたのだろう。

_ 失敗したら死が待っているという緊張感の中で行動するKCIAと、どう動いても死が近づいてこないぬるま湯のような日本の状況に苦悩する富田は、互いに次元の違う世界にいるように交われない。

_ 最後の場面で、愛する女と静かな人生を送ろうと決意した富田は唐突な死に遭遇する。これが三島作品の主人公であれば、英雄であることを捨てた男に訪れる当然の最期ということになるのだが、阪本順治監督の意図はそうではなかったのだろう。


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