_ 加藤紘一元自民党幹事長の実家と事務所に放火したとされる右翼団体幹部は現場で腹を切って倒れていた。腹からは腸がはみ出ていたとのこと。
_ 私が注目したのは、この男の65歳という年齢だった。三島由紀夫は英雄的な死を遂げるには年齢的な制約があると考えていて、その限界を49歳で自刃した西郷隆盛においていた。
_ この右翼は結局死ぬことはできなかったが、介錯なしに割腹のみで死ぬのは難しい。「一死大罪を謝し奉る」の遺書で有名な阿南陸相はポツダム宣言の最終受諾返電の直前の1945年8月14日の夜陸相官邸で腹を切り、介錯を拒み、翌15日朝絶命した。偶然動脈を切るなどしなければ腹を切っただけではなかなか死ねないのだ。
_ 介錯なしで一人で確実に死ぬには三島が「憂国」で書いたように割腹後首に刀を当てて頚動脈を切る必要がある。しかし、これも腹を深く切った場合には困難な作業になるだろう。
_ 切腹いう自殺の形態はたぶん日本に特有なもので、他の方法による自殺とは性質を異にしている。よく、死んで詫びるというが、首を吊ったり、電車に飛び込んだり、という安易な自殺は責任をとったことになるのか疑わしい。死は誰にでも訪れるもので、それを自ら早めたとしてもいかほどのことか。金を借りていた人が返済日前に払ってきた程度のことではないか。特に、昨今のイスラム自爆テロは、それで天国に行けると思ってやっているのであれば、責任とは無関係の自分勝手な死ではないか。
_ 切腹の特異な点は、死ぬという目的には不必要な要素が多く、効率的な方法ではないところにある。それは、多大な苦痛を伴うがその割には致命傷にならず、途中で止めようと思えば可能で、怪我をしただけで引き返すことができる。強い意志と体力がないと目的を達することができない。すなわち、切腹は単に死という結果を生ずる手段ではなく、一つの表現行為なのだ。それは単なる終止符ではなく、最後のメッセージなのだ。
_ 59歳になった私は、65歳で腹を切る意志とエネルギーを持った人がいるということに素直に驚いている。